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2012/02/12

額縁屋から見る、家具

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日々、額縁の作業部屋の隣りの工房で、旦那がせっせと家具を作っている。

で、たまに「来い来い」と手招きされる。

途中経過の確認。

ダイニングテーブルの脚の位置をどうするか。とか、

棚の段を何cmピッチにするか。とか。

「家具」

といっても、自分にとっては、実は、今まで案外、漠然としていたのだ。

引越しが多くて、なかなか居が落ち着くということがなく、そうなると、なかなか「これぞ」という家具を選んだり購入したりする機会がなかったのだ。

となると、お約束的な「通販」であったり、近所のホームセンターで一時しのぎで、「まあ、こんなもんか」とあきらめ半分で買って使っては、それが気に入っているかと問われれば、

「気に入ってません」

と。

ならば、なんで、そんな物を買ったのかと問われれば、

「間に合わせです」

と。

でも、この間に合わせというのが、意外と厄介で、

「こんなグラグラな棚ってどうかね」

と思うのだが、これが、壊れそうで壊れないのだ。

そうなると、捨てるに捨てられない。

そんな自分のことを、いま、こうしてウダウダと書いているのだが、そう感じている人はたぶん自分だけじゃないはずだ。

どこかで、踏ん切りをつけるとき。

っていうのは、あると思う。

こんな、グラグラした物じゃなくて、「ちゃんとした物」が欲しい。と。

じゃあ、それは、いつか。

というと、自分は「いま」なのだ。

日々、間近で家具が作られていく。

いままで、10年以上、自分は額縁を作っていたので、どこかしら、何かしら「わかっている気」がした。

でも、正直、わかっていなかったのだ。

いまになってようやく、「ちゃんとした家具」が作られていくさまに、ビビり←ビビってどうする

素直に感嘆している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いい物は、いい」

と言われるけど、ときに、その言葉が非常に薄っぺらく感じることがある。

自分も物を作る人間だ。

その言葉は自分の周囲で、とぐろを巻いている。

でも、「いい」と言うくせに、人は動かない。

むしろ、「いいんだけどねえ」、と言われながら、文句を言われるのだ。

昔はどうだったか知らないが、いまはそんなご時世でもあるのだ。

そんなご時世の真ん中で値の張る額縁を作っていたからこそ、わかるのだ。

こんなご時世に、やはり、これまた、値の張る家具を作っている人間がいる。

値が張るとは言ったが、それは正当価格だと思っている。

地味な仕事である。

家具にしろ、額縁にしろ。

毎日、粉塵まみれだ。

手も汚れて、ガサガサだ。

でも、売りたいのはそんな苦労ではない。

旦那の作った家具を傍観者的に眺めたとき、素直に

「ちゃんと作っているんだなあ。これ、家でも使いたいなあ」と。

消費者の目線になっていた自分がいたのだ。

売りたいのは、これだ。この気持ちだ。

作り手から一歩離れて見られる人間が、心を動かされたのだ。

先に出た「ちゃんとした物が欲しい」踏ん切りが、この瞬間だったのだ。

いままで間に合わせな家具しか使っていなかった人間が、素直に「欲しい、使ってみたい」と感じる家具。

それは、技巧でも高級材でもない。

使う人のことを考えて作ったものから生まれる、説得力なのだ。

旦那の作る家具は静かだ。

自分の作る額縁と比べたら、ホントに静かだ。

「朴(ぼく)」としている。

朴とは、「手を加えない、そのままの状態」を表す語。

変に飾ったり、演技をしたりしない、そのままの姿を表している語。

だから、無駄な自己主張はなく、使ってくれる人に静かに寄り添う家具なのだ。

でも、「木」そのものは、案外、饒舌だったりもする。

「どだ!重いだろ!!」

「どだ!木って、あったかいだろ!触るか?触ってみい」とな。

案外、木は、いろいろとうるさい。

そんな木から生まれる家具が日々、shopスペースに置かれていく。

しかし、どの家具もまだ途中段階で、オイル塗装で仕上げてもらうのを待っている。

開店の日。

ホームセンターのように、店中に家具がギュウギュウあふれていることはないと思う。

でも、そんなふうに作られている家具が、ならび、みんなに触ってもらえるのを楽しみにしていると思うのだ。

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